禁煙のこと⑤最終回

 煙草を止めて、もっとも戸惑ったのは……一日の句読点がなくなったことです。
 なにかしたあとに一服、またなにかして、一服。
 それまでの僕の生活は、常に煙草とともにありましたから、区切りごとに一服という習慣が根強くついていました。
 それが、突然なくなってしまったのですから、区切りがなくなってしまったような、なんとも居心地の悪いことになってしまったのです。
 これは慣れるしかありませんね。

 戸惑いは、まだありました。
 上映前の映画館のロビーで途方に暮れてしまったのです。
「ここで、俺は一体なにをすればいいのだ?」
 以前は、コーヒーを飲みながら、煙草の吸い溜めをしていました。予告編のあいだも、本編が始まるぎりぎりまでロビーで煙草を吸っていました。
 冷静になれば、コーヒーは劇場の椅子に座って、予告編を見ながら飲めばよいのです。そうか、そうすれはよいのだ!と気づいたときには、自分がいかに煙草に振りまわされていたかを痛感したものです。

 そんなことに気づくことが、禁煙を始めたころは、実に楽しかったです。
 煙草って、生活に多くの影響を及ぼしているんですね。

 危機もありました。
 禁煙当初は、酒の席で、
「吸いませんか?」
 と、わざと煙草を差し出されても、にこやかに断りました。
「その手には乗りませんよ」
 てなもんです。
 でも、しばらく経ったころに、また薦められたら……吸ってしまっていたかもしれません。余裕が出たころがあぶないです。
 そのあぶないころ、僕の禁煙など、みなさん念頭になくなっていたようで、薦められずに済みました。
 ただ、そのとき、涎を垂らさんばかりに、テーブルの上に置かれた煙草のパッケージを見ていたことでしょう。それも気づかれずによかったです。

 酒は理性を鈍麻させますから、欲望に負けやすいのですね。
 麻薬中毒だった人は、酒も飲めない……ということを、翻訳小説で知りました。いったん中毒になったら、一生、誘惑と闘わなければならず、理性のタガを外す酒などはもってのほかというわけです。

 ちなみに、煙草を薦めてくれた人は、作家の稲葉稔さんです。あぶないときも、稲葉さんの煙草を見てました。あのとき、稲葉さんが、
「一本吸います?」
 なんて訊いてきたら、おそらく吸ってしまったような気がします。
 あぶない、あぶない。
by ashikawa_junichi | 2008-04-06 08:07 | 禁煙 | Comments(0)
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